2018年11月13日火曜日
Contax IIIa
Contax IIIa ライカに較べて人気がないためか、広角レンズを除いてで安価に入手できる。生産後60年が経過しているが、分解してみれば、その凄さがわかる。
メインテナンスされていないものは シャッター関係が調子悪くなっているものがほとんどだが、分解、清掃、テフロドライでシャッターは快調になる。
露出計はセレン製の太陽電池の電極が腐食、接触不良になる。残念ながら設計に問題があり、少なくとも1年に1回は電極部分のクリーニングが必要。
さて、Contax IIIaの写りはどうだろうか? レンジファインダーといえば広角。
下記はレンズに Biogon 21mm f4.5を使用。一瞬のシャッターチャンスに強い。
Biogon 恐るべし。60年前のカメラとレンズだが、究極アナログFOREVER!
2016年10月2日日曜日
Apple ][ 用アクセラレータ
Ebayにて、その昔、使っていた3倍速カード(Accelerator IIe)を購入。
そして今回、当時は購入できなかった初代Accelerator II もGET。
較べてみると、初代は両面基板にバスバー(バイパスコン機能付き)、IIeは4層基板に各IC1個にパスコン1個の設計。まだ、CADの能力が低かった時代、どちらも、職人芸的な手貼りアートワーク設計。入手したボードのCPUはどちらもNCRの65C02C。左下の銘板の下は遅延線モジュール(STTLDM-714)です。
2013年10月15日火曜日
お食事処「藤七」
藤七が開業したのは、私が大学2年のころだから、もう35年が経過している。若いご夫婦二人で開業したお店。今回35年ぶりに訪れたが、代替わりすることなく営業していた。当時、私は大学のそばに住んでいたが、休日はバス3本、いちばん近くの本屋は菱野団地の本屋で6km、藤ヶ丘は8kmと大変な秘境?だった。藤七はその菱野団地に行く坂の途中にあり、自転車出撃の帰り、夕食によく利用した。当時のお気に入りは「てんぷら定食」。 かにかまぼこでない、たらばの足のてんぷらが付いていた。(当時、そんなものを食べたことはなく驚いた)残念ながらてんぷら定食はメニューから外れていた。写真はランチの味噌カツ定食650円也。
来年も大学祭出撃時、昼食は藤七かな。
2011年10月23日日曜日
2011年地蔵大橋の旅
地蔵大橋までは徒歩で40分かかった。途中は、半端でない落石、がけ崩れ、倒木があり非常に危険。特に今年の台風の影響により、更に困難、危険な状態になっていた。
行く手をさえぎる有名な落石。砂防ダムの上から落ちてきたものと思われる。推定重量は500トン以上?
と言う事はもう40年経過している。
良質な材料、卓越した技術で製作されたことがわかる。
このネームプレート同様、40年、何の保守もされていないのに、橋本体も劣化、腐食がほとんどない。さすがに、手すり部分の塗料は下部がはげ落ちているが、錆びは発生していない。どうやら鉄ではないようだ。
あいにく、ガスで視界不良。
しかし、晴れていれば素晴らしい眺望だったことは間違いない。
2011年10月19日水曜日
鶴見川と矢上川の鳥
2011年10月10日月曜日
10年ぶりにAITへ出撃
学生時代(30年以上前)は、ここの味噌かつ定食には、お世話になった。ただし、食後、胃がもたれるので月に1回程度しか利用しなかったが。よく利用したのはすぐ近くの喫茶店「みよし」、ここのみよし定食(ハムエッグライス?)とか、焼肉定食の味は忘れられない。残念ながら後継者がいなかったためか閉店していた。



30年以上前から立ち退きで争っている。
30年以上前から立ち退きで争っている。
昔は2階が下宿、隣は別の定食屋が入っていたが、「車」の部分を残してきれいに撤去されている。昔は長屋形式の建物で両隣があったのだが。
シンボルマークの車
残念ながら日曜だったため開店していなかった。インターネット全盛の時代、口コミや評価、情報がほとんどない珍しいレストラン。マピオン等で場所と電話番号は見つかるのだが。
大学祭展示の鉄人28号
大学祭風景動画
夕食は藤ヶ丘近くの「あさくま」であさくまハンバーグ。さすがに学生ステーキはなかったが学生ハンバーグはあった。写真はあさくまハンバーグ。価格は30年前と較べると3割くらい上がっている。
まあ、しかたないが。
2011年10月2日日曜日
元住吉の旨いケーキ
2011年9月8日木曜日
NAGRA IV-SJ のメインテナンス

フロントパネル
ロータリースイッチのナットとトグルスイッチのいもねじを外せば外れる。
中央上がメータ照明用押しボタンスイッチ
押しながら回すことにより、照明状態でロックできる。
フロントパネル裏面
中央がNAGRA内製と思われる押しボタンスイッチ。フロントパネルからは簡単に外せるが、スイッチ部はネジロックされており、壊すのを覚悟するほどの力を入れないと外せない。CRCをかけ、モンキーレンチとパイプレンチでなんとか分解できた。接点部をアルコール洗浄して修理完了。
プリアンプ&アッテネータ基板
トランジスタ入力からFET入力に改造してある。通常版のIV-SJはトランジスタにブートストラップをかけて無理して入力インピーダンスを上げている。このため内部の結合時定数が大きく、電源ON後、数秒、メータが大きくふらつく。
改造により、ブートストラップ回路は削除。
時定数も見直しているので電源投入後、すぐメータは安定する。
上が10dBのロータリスイッチ、下が1dBのプリント板取り付け型ロータリスイッチ。
赤白の線は動作チェック用に付けた電源線。(0V、-10.5V)
なお、NAGRAの場合赤がシャーシ電位の0Vで統一されている。
2011年8月28日日曜日
Nagra III のカタログと回路図
2011年8月17日水曜日
真空管式電子計算機 FUJIC
国家プロジェクトのTACより先に完成、稼動した。先に完成できたのは岡崎氏の能力もあるが、優れたオシロスコープの有無にあったかもしれない。この時代のオシロスコープは当然、真空管式だが、テクトロニクスがあるかどうかで勝敗は決まった。開発時に予算申請してないものの調達は今も昔も超大変だ。(たとえそれがどんなに必要でも)
以下は
日本のコンピュータ開発群像 日刊工業より
真空管式のコンピュータはどれも完成までの期間が長い。 第1に真空管そのものに信頼性がなかった。そして、始めは 信頼性がコンピュータにとっていかに大事かという設計の基本の考え方がまだ十分にはなかった。なにより調整に必要な測定器が 揃っていない。FUJICでは岡崎氏が「NHK技術研究所」の木下幸次郎さんに頼んでテクトロニクスの測定器を借り受け、土曜の 午後に小田原に運び土日いっぱい使って、月曜の朝、東京の同萱へ返しに いくという使い方をし、そのありがたさというか、必要性を知って後に自社用を買い入れた」 真空管式コンピュータは例外なく信頼性で痛い目にあった。 そのことが、のちのちコンピュータ開発に教訓として生きた。
TACが動かないことの原因のひとつに、調整手段の不備ということ があった。再スタートしたTACは、このためシンクロスコープを 入手することが第一に必要だった。 東大はこれを購入した。「村田くんが、借金を質においても シンクロスコープを買ってくれというものだからテクトロニクスの ものを無理して買った。それで、アラがわかって、TACがぐんぐんと 進むようになった。もっとも、あとで、金が足りなくなって 困ったが」と雨宮氏。 「使ってみて、びっくりした。トラホームの目が、急に晴れたような 気持ちだった」と村田氏。

真空管式のコンピュータはどれも完成までの期間が長い。 第1に真空管そのものに信頼性がなかった。そして、始めは 信頼性がコンピュータにとっていかに大事かという設計の基本の考え方がまだ十分にはなかった。なにより調整に必要な測定器が 揃っていない。FUJICでは岡崎氏が「NHK技術研究所」の木下幸次郎さんに頼んでテクトロニクスの測定器を借り受け、土曜の 午後に小田原に運び土日いっぱい使って、月曜の朝、東京の同萱へ返しに いくという使い方をし、そのありがたさというか、必要性を知って後に自社用を買い入れた」 真空管式コンピュータは例外なく信頼性で痛い目にあった。 そのことが、のちのちコンピュータ開発に教訓として生きた。
TACが動かないことの原因のひとつに、調整手段の不備ということ があった。再スタートしたTACは、このためシンクロスコープを 入手することが第一に必要だった。 東大はこれを購入した。「村田くんが、借金を質においても シンクロスコープを買ってくれというものだからテクトロニクスの ものを無理して買った。それで、アラがわかって、TACがぐんぐんと 進むようになった。もっとも、あとで、金が足りなくなって 困ったが」と雨宮氏。 「使ってみて、びっくりした。トラホームの目が、急に晴れたような 気持ちだった」と村田氏。
1957(昭和32)年10月4日付、朝日新聞のコラム「フィルター」 に「超スローモの電子計算器」と題する記事が載った。筆者は「探針子」 とある。内容は、まず、文部省科学研究費の第1回機関研究にTACが 選ばれたこと、予定の昭和29年春に間に合わなかったのは、別段驚く にあたらぬ」としながら「由来、電子計算機にはフォンノイマンとやらの 法則があって、いつ聞かれても「完成は半年先」と答えるのが国際的 現象という」と皮肉り、「しかし、すでに6年目を迎えたいま...未完成 のまま眠っているとあっては、単に東大と東芝の恥辱にとどまらず、 まことに奇怪な物語ではないか」と書く。 そして、次のような辛辣な文章が続く。 研究に失敗はつきものである。これ以上どうにもならぬなら、いさぎよく 失敗を認めてその経過と原因を学会に報告し、今後の教訓とすべきである。 最初の目標を変更して形がつくものなら磯井で呈せ異能のものに切り替えて まとめっるべきである。3千万円ではあ最初から予算の見積もり違いだった というのなら、さらに文部省に予算を請求すべきである。 (外国では1億円かかるのに3千万円でできるのが特徴だと宣伝されていた はずだが)。そのいずれをも怠ってウヤムヤにすれば、こんご電子計算機 の研究にはいっさい、金がでなくなるばかりか「研究費が足りない」 などという学者の言葉を国民は頭から信用しなくなるに違いない。 要は学者の良心の問題と責任の所存の不明確さにある」 「探針子」とは誰か、当時はあれこれの推測があったというが、 誰であるにしろ、これはTACの事情に相当よく通じていた人で あるのは確かだろう。
TACは難航した。日本で初めての真空管コンピュータだから、簡単に できるとは誰もいえなかったわけだが、その言い訳も実は通用しなくなった。 1956(昭和31)年3月、日本初のエレクトリックコンピュータ、 FUJICが、富士写真フィルムで完成したのである。 FUJICは、たとえば真空管の数にしても、TACの7000本に対し、 1800本と少ない。メモリも、FUJICは水銀遅延線を使っている。 しかし、TACが、計算機に関する研究者の集まっている東大と、 電気電子メーカである東芝とが共同で取り組んでいたのに比べ、FUJIC は、当時、電子とは無縁のカメラメーカで、しかも、人手は手伝いの女性社員を入れても5~6人というものだった。 開発者の岡崎文次氏が基礎研究に着手してから完成するまで7年かかって いるが、ともあれ最初に完成したのはFUJICだった。
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